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東京地方裁判所 昭和58年(ワ)8100号 判決 1985年1月31日

原告

伊藤信枝

原告

伊藤栄一

原告

伊藤喜代美

原告兼右原告ら三名訴訟代理人

甲野一郎

右原告ら四名訴訟代理人

櫻井光政

被告

乙野太郎

右訴訟代理人

高山俊吉

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告伊藤信枝に対し金七六五万七九二八円及びこれに対する昭和五一年一二月二日から、原告伊藤栄一、同伊藤喜代美に対し各金六二二万六〇四八円及びこれに対する昭和四九年七月一九日から、原告甲野一郎に対し金一〇〇万円及びこれに対する昭和五八年八月一九日から各完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求の原因

1  別件訴訟の経緯

(一) 原告伊藤信枝は後記(二)の交通事故で死亡した伊藤喜三郎の妻、原告伊藤栄一は長男、同伊藤喜代美は長女である(以下右各原告については姓を省略して呼称し、これらを総称するときは「原告伊藤ら」という。)。

(二) 伊藤喜三郎は、昭和四八年九月二二日軽乗用自動車(以下「伊藤車」という。)を運転して国道一二六号線上を千葉市大草町方面から同市中野町方面に向かつて進行中、千葉市高根町九六四番八先において反対方向から進行してきた肥後富士男(以下「肥後」という。)運転の普通乗用自動車(以下「肥後車」という。)に自車が正面衝突した事故(以下「本件事故」という。)により、右大腿骨骨折、胸骨骨折等の傷害を負い、その結果同日午前三時頃右事故現場で死亡した。

(三) 原告伊藤らは、肥後外一名を被告として本件事故による損害の賠償を求める訴えを提起した(千葉地方裁判所昭和四九年(ワ)第三七五号、以下「別件訴訟」という。)。右訴訟において同訴訟被告肥後らは免責の抗弁として、本件事故は肥後車が自己車線(以下「肥後車線」という。)を進行中伊藤車が突然同車線に対向進入して来たために生じたものであり、右事故について肥後には過失がないと主張し、同訴訟原告ら(原告伊藤ら)は、肥後車が対向車線(以下「伊藤車線」という。)に侵入し同車線外側のガードレールに接触した後同車線内で伊藤車と衝突したと反論したが、第一審判決は肥後らの抗弁を排斥して、原告信枝に対し金八四六万四六〇〇円、原告栄一、同喜代美それぞれに対し金七二五万八六四〇円及び右各金員に対する昭和四九年七月一九日から支払ずみまで年五分の割合による金員の支払を命じ、実質的に原告伊藤らが勝訴した。ところが、肥後らから控訴の提起があり(東京高等裁判所昭和五二年(ネ)第二五八一号)、右控訴審において、控訴人らから被告作成の「鑑定書」及び「鑑定書補正」と題する各書面(以下「鑑定書等」という。)が書証として提出され、被告が証人として尋問された(以下鑑定書等及び右証言を「被告鑑定意見」という。)。その結果、右控訴審である東京高等裁判所は昭和五五年九月二四日被告鑑定意見を盲信して事故態様に関しては肥後らの主張と同旨の事実を認定し、肥後らの免責は認めなかつたものの、大幅な過失相殺を認め、原判決を変更して、原告信枝に対し金八〇万六六七二円及びこれに対する昭和五一年一二月二日から支払ずみまで年五分の割合による金員、原告栄一、同喜代美それぞれに対し金一〇三万二五九二円及びこれに対する昭和四九年七月一九日から支払ずみまで年五分の割合による金員の支払を命じ、その余の請求を棄却するとの、第一審判決の認容額を大幅に減額する判決をした。

なお、別件訴訟当事者双方は上告したが(昭和五五年(ネ)(オ)第三一三号、同年(オ)第一一四七号)、昭和五八年一月二〇日最高裁判所は双方の上告とも棄却した。

2  原告伊藤らに対する不法行為

被告は、後記(二)のとおり故意又は重大な過失により前提事実を偽り、客観的証拠を見落とし、また経験則の適用を誤つて、後記(一)のとおり真実に反する鑑定書等の作成、証言をし、もつて裁判所の判断を誤らせたものである。よつて、被告は、これにより原告伊藤らに生じた損害を賠償する責任がある。

(一) 被告鑑定意見は、肥後車はガードレールに接触したことはなく、肥後車と伊藤車の衝突地点は肥後車線内であつたと結論するものであつた。

しかしながら、本件事故の態様は次のとおりであり、被告鑑定意見は真実に反する。すなわち、肥後車は、本件事故現場付近の道路が同車の進行方向に向つて左カーブかつ下り坂であつたので、このカーブを曲り切れず、センターラインを越えて伊藤車線へ侵入し同車線外側のガードレールに接触擦過した後、折から反対方向から進行して来た伊藤車と伊藤車線内で正面衝突し、肥後車はその前部に伊藤車の前部をくわえこんだまま進行し、伊藤車を肥後車線側の路外に押し出して停止した。

(二)(1) 肥後車の右側面にはガードレールと接触してできた擦過痕が存するところ、被告鑑定意見は、右擦過痕は青柳寛運転の自動車(以下「青柳車」という。)との衝突によつて生じたものであるとする。すなわち、青柳車は、本件事故後肥後車の後方から本件事故現場にさしかかり、コントロールを失つて横滑りして伊藤車線外側のガードレールに右後部、右前部の順で衝突し、さらに横すべりして肥後車の右側部に沿つて後方から前方に進み肥後車の右側面に擦過痕をつけた、というのであり、青柳車の右後部が右前部より先にガードレールに衝突したことの根拠として、青柳車の右後部損傷は右前部損傷より大きいこと、肥後車の擦過痕が後方から擦過されたことの根拠として、肥後車の前部バンパー右端が後方からひつかけられた結果として前方に変形していることを挙げる。

しかしながら、実際は、青柳車の右後部損傷は右前部損傷より小さく、肥後車の前部バンパー右端には何かにひつかけられたような擦過痕等の形跡はないのであるから、被告鑑定意見では前提事実が偽られている。また、肥後車の右側前部の備品についた傷の形状、同車の右ヘッドライトのフレームの擦過痕を撮影した写真が存在し、これらは肥後車の右側面の擦過痕が前方からつけられたことを示す客観的証拠であり、肥後車右側面の擦過痕の色がガードレールに付着した泥と同色の薄茶色であること、同車の右側面にガードレールのビスが衝突した痕跡があることを示す写真が存在し、これらは肥後車がガードレールに接触したことを示す客観的証拠であるが、被告鑑定意見では右証拠が見落とされている。

(2) 被告鑑定意見は、肥後車がガードレールに衝突しなかつたことの根拠として、仮に衝突していたとすれば、事故後の停止位置からみてガードレールからの脱出角は約二五度になるが、実車実験によればこれはありえないことを挙げている。しかしながら、右実験は車輪舵角を零度にして実施されているが、現実には運転者が衝突前及び衝突後にハンドルを転肥ママするので、右実験結果を現実の事故にそのままあてはめることは誤りである。

(3) 以上の誤りは、通常人ならば容易に知りうるところであるが、工学博士として七〇件もの訴訟において鑑定人を勤めた被告ならばなおさらであるから、右誤りについて被告には故意又は重大な過失があるというべきである。

(三) 別件訴訟の控訴審裁判所は、被告鑑定意見により欺罔され錯誤に陥つて、前記の通り第一審判決を変更して認容額を減額したのであり、その上告審である最高裁判所は、事実審理を出来ないという法律上の制約から原審の事実認定が間違つているという疑いを持ちながら、原告伊藤らの上告を棄却したのであるから、別件訴訟第一審判決の認容額と同第二審判決の認容額の差額、すなわち、原告信枝については七六五万七九二八円、原告栄一及び同喜代美については各六二二万六〇四八円並びに右各金員に対する昭和四九年七月一九日から支払ずみまで年五分の割合による金員は、被告の鑑定書等作成及び証言により右原告らに生じた損害というべきである。

3  原告甲野に対する不法行為

(一) 被告は、昭和五八年東京弁護士会に原告甲野一郎(以下「原告甲野」という。)の懲戒申立てをした。その理由は、同原告が被告に対し昭和五八年三月一九日付内容証明郵便で損害賠償請求をしたというにある。

(二) しかしながら、右損害賠償請求は、原告甲野が代理人として正当な権利行使をしたにすぎず何ら違法ではない。してみれば、被告の右懲戒申立ては、不当に原告甲野の職務行為を妨害せんとするもので違法である。

(三) 原告甲野は、右懲戒申立てにより名誉を毀損され、その答弁及び釈明の為に相当な時間を費やさねばならず、また代理人を選任したのでその報酬を支払わねばならない。そこで、右による財産的損害は六〇万円を下らず、その精神的苦痛に対する慰謝料は四〇万円を下らない。

4  よつて、原告らは、被告に対し、不法行為による損害賠償請求権に基づき、原告信枝に対し金七六五万七九二八円及びこれに対する昭和五一年一二月二日から支払ずみまで年五分の割合による金員、原告栄一及び同喜代美に対し各金六二二万六〇四八円及びこれに対する昭和四九年七月一九日から支払ずみまで年五分の割合による金員、原告甲野に対し金一〇〇万円並びに右金一〇〇万円に対する不法行為の後である昭和五八年八月一九日から支払ずみまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求の原因に対する認否

1  請求の原因1の事実中、別件訴訟控訴審で被告作成の鑑定書等が書証として提出され、被告が証人として尋問されたことは認め、その余は不知。

2  請求の原因2の事実中、被告鑑定意見が原告ら主張のとおり結論するものであることは認め、その余は否認する。

3  請求の原因3の事実中、(一)は認め、(二)は争う。

三  被告の主張

原告伊藤らは、別件訴訟における主張立証殊に被告に対する反対尋問を通じて、既にその見解を開陳し、被告鑑定意見に対する反論も尽くしている筈であり、これらを踏まえて裁判所の最終判断が下されている。しかるに、右原告らは、右最終判断に反する事実を主張して本訴請求をなすものであるから、右請求は、民事確定判決に対し適式の不服申立てをするための要件を欠く原告らが本訴請求をなすことにより法の定めを潜脱してそれと同一の結果の実現をはかるものといわざるを得ず、かつ、責任ある自然科学者として鑑定業務に携わることの多い被告の名誉を甚だしく毀損するもので、濫訴であることは明白である。

第三  証拠<省略>

理由

一原告伊藤らの請求について

原告伊藤らの本訴請求は、同原告らが衝突車の運転者外一名を被告として交通事故による損害賠償を求めた別件訴訟において、確定するに至つた二審判決が一審判決を変更し、認容額を減額した一審判決と二審判決の認容額の差額を損害とし、その損害は被告の誤つた鑑定意見を二審の東京高等裁判所が盲信した結果生じたものであるから、被告が不法行為責任に基づきこれを賠償すべきであるというものである。まず、このような主張自体の当否について考える。

1  一審判決認容額と二審判決認容額との差額が損害賠償請求の対象たり得るか

損害賠償請求における「損害」という概念は、元来多義的であるが、一般的には、侵害行為(加害原因)なかりせばあるべかりし利益状態(当為)と侵害によつて生じた現在の利益状態(現実)との差額であると解されている。本件において、原告らは、一審判決認容額を右の意味の当為とし、二審判決認容額を右の意味の現実とし、両者の差額をもつて損害と主張している。一般に特定事件の一審判決とこれを変更する二審判決との間に、右のような当為対現実、一審判決があるべき利益状態で二審判決が侵害によつて生じた現実の利益状態というような関係が考えられるであろうか。一審判決は、確定前は既判力を有せず、二審判決によつて変更される蓋然性を内在的に具備するものであつて、二審判決によつて変更されれば、変更された限度で通用力を失うものである。確定判決の形成に至る訴訟の過程において、変更前の一審判決は経過的意義を有するに過ぎず、本件において、上告棄却により二審判決が確定した以上、判決として既判力、執行力を有するのは二審判決の判断のみであつて、一審判決は二審判決によつて止揚された関係にあり、二審判決のみが、当為でありかつ現実でもあるというべきである。したがつて、変更前の一審判決の認容額が確定した二審判決の認容額との関係において、当為性を持つとはいえないから、両者の差額をもつて損害賠償請求の対象たる被侵害利益とする見解は採用できない。

2  原告ら主張の損害の発生原因と賠償義務者

また、原告らは、二審における判決の変更により損害が生じたと主張するが、二審における判決の変更は、一審において排斥された過失相殺の主張が認められた結果、認容額が減額されて生じたものであつて、判断の対象は別件訴訟の訴訟物たる交通事故による損害賠償請求権であるから、減額分といえども、認容分と同様に、当該交通事故によつて生じた逸失利益、慰謝料等の損害であり、その発生原因は当該交通事故そのものにほかならないのであつて、東京高等裁判所の判断によつてはじめて発生した損害であるということはできず、したがつてまた被告が誤つた鑑定意見を裁判所に対し申し述べたことがその損害の発生原因であるというのも誤つた見解である。したがつて右のような損害について賠償義務を負うべきものは、当該交通事故の発生に関し責任を負うべきものであつて、単に当該交通事故の発生の態様について訴訟において見解を述べたに過ぎない被告が、そのような損害について賠償義務を負うべき理由はもともと存在しない。

3  実体法上存在する損害賠償請求権が第二審判決の既判力により遮断されて行使しえなくなつたことが損害であるとの主張について

原告らの主張によれば、別件訴訟の訴訟物は本件事件によつて生じた不法行為に基づく損害賠償請求権であるところ、別件訴訟の一審判決と二審判決の各認容額の差額分の損害なるものは、実体法上存在する右損害賠償請求権が被告鑑定意見により二審判決で大幅に過失相殺され、右過失相殺分が同判決の既判力により遮断されて行使しえなくなつたために生じたものであるとも考えられ、原告らの主張は明確を欠くのが右同旨の主張とみる余地もある。

そうだとすると、本訴請求についての判断は、必然的に別件訴訟で訴訟物となつた請求権の存否についての判断を内包することにならざるをえない。しかしながら、民事訴訟法は、三審制度を採用し、当該訴訟における訴訟物の存否については当事者双方に十分に攻撃防禦を尽くす機会を与えている反面、判決が確定したときには、既判力をもつてその判断を尊重すべきものとし、確定判決に対する不服申立てについては厳格な要件を設けている。しかるに、右のような後訴請求を無制限に認めるとすれば、裁判所の確定判決に不服のある者は、書証の作成者、証人等判決成立過程に関与した者に対して責任を追及するという形で被告を交換することにより、同一の訴訟物に関する裁判所の判断をくり返し求め得ることとなり、実質的に判決の既判力を無視し、再審制度を無意義なものにしてしまう。従つて、右のような後訴請求は、書証の作成、偽証等につき有罪判決が確定する等再審に関する民訴法四二〇条二項所定の事由に準ずる事実が存するような場合を除き許されないと解すべきである。

これを本件についてみると、原告伊藤らの本訴請求は、前記のとおり別件訴訟において被告が真実に反する証言をする等の不法行為をしたとして、別件訴訟の第一審判決と確定した第二審判決との認容額の差額につき損害賠償請求をなすものであるところ、被告の鑑定、証言につき虚偽鑑定や偽証としての有罪判決が確定している等の事実が存在することについての主張立証はないから、原告らの主張を前記のように解してもやはり失当である。

よつて原告伊藤らの本訴請求は、被告の別件訴訟における鑑定意見の当否につき論議をむし返すまでもなく、主張自体失当である。

二原告甲野の請求について

原告甲野の本訴請求は、弁護士である原告甲野が被告に対して損害賠償請求したという理由で被告が原告甲野につき東京弁護士会に懲戒の申立てをしたことが不法行為にあたるとして損害の賠償を求めるものである。しかしながら、弁護士について所属弁護士会に対し懲戒の請求をすることは、弁護士法五八条により広く何人にも認められた権利であるから、特段の事由がない限り、懲戒請求権の行使を違法ということはできない。被告による申立ての理由が原告甲野により損害賠償請求されたことであるからといつて、懲戒請求が違法になると解することはできず、他に右特段の事情については何ら主張立証がない。よつて、原告甲野の本訴請求も失当である。

三  以上のとおり、原告らの本訴請求はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(白石悦穂 窪田正彦 倉田慎也)

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